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がおる境界神論序説

序文

悪魔がおるは特殊な立ち位置を持つキャラクターである。imgにおいてはdatからやってくる獣と少女の姿をした悪魔であり、番号ゾロ目のレスポンスにより「即返脚」さ れ、datに帰っていく。


このようにサーバ 間を行き来するとされるキャラクターは思いのほか少ない。てすとjunの「先輩」やnovの「うま味紳士」のように各サーバの象徴的キャ ラクターの顔をimgでもよく見ることができる。しかし前述した二例はいずれも「novに帰れ」「里に引きこもっててください」と言われることはあれ、が おるにおける「即 返脚」のような帰還させるための定型様式を持たない。


ならば、即返却こそがimgにおける悪魔がおる固有のストーリーであり、そこには何らかの意味が隠さ れていると見るべきではないだろうか。

本論においては悪魔がおるを二つの特性、「dat(村)から訪れるもの」「帰還 を促す儀式行動を持つ」ことからマレビトと仮定をおき、その明確な論拠を明らかにする。さらに民俗学的側面からがおるというキャラクターの可能性を探って みたい。


がおるの性質に関しては先に触れたとおりである。ではその性質と照らし合わせながらマレビトという民俗概念を紹介しよう。

マレビト概念を理解するためにはまず、民俗文化の基本となる「ウチ」と「外」と「境界」を知る必要がある。我々が世界を認識するとき、自分にとり身近なも の(場所)と身近 でないもの(場所)に分けて認識される。この認識は自身の生活を中心に円形を描いており円の中心から遠のけば遠のくほど、自身とは縁遠い ものとなり、円の 外は未知の領域となる。


あえて言うまでなくこの円は実際の生活に限らず、二次裏でも発生している。imgにその実例を見てみると、自 身の関心ある話題のスレがより中心に近く、関心は薄いがカタログで見かけるネタがその周縁に配置される。

さらに認識の円はサーバを超える。比較的近しいとされるdatをはじめとし、nov、jun、mayなどがより中心から遠い周縁に配置される。中心から遠くな ればなるほどサーバに関する認識は、断片的なものとなりイメージを構成していく。たとえばjunの文字コラ、novのクソコテなど強い存 在感を持つ情報が 円中心に向け発信され、その情報から「junちゃん家は頭おかしい」などと の言葉が浮かび上がることになる。


そして認識円の境 界は「ふたばちゃんねる」という明確な境界線により、「ふたば」と「それ以外のネットコミュニティ」という対立項が描かれる。2ちゃんね るやニコニコ動画 に対する苦手意識の発生は円の外部にある共同体ゆえのものといえる。危険なもの、未知のものとは常に認識円の外部から来るためだ。



円の内部を「内」、円の外部を「外」と我々は認識する。

し かし内と外の対立項だけで世界観が作られるものではなく、さらに両者の間には「境界」があり、この境界こそが妖怪幽霊を文化的に考察する上でもっとも注目 すべき要素となる。


たとえば黄昏時という言葉がある。夕刻、だいたい5時から6時代の日が沈む時間であるが、語源は「誰そ彼」であり、今のように電灯ない時代、道行く人の 姿こそ見え顔は見えず「そこにいるのは誰か」と問いかける時間帯であった。

さて、この黄昏時はよくおばけが現れる。たとえば口裂け女は下校の時間(夕方)に現れるし、小豆洗いが出現するのも夕刻である地域もある。

これは夕方とは昼 間と夜の境界であり、誰そ彼時とは身内と部外者の区別(境界)があやふやとなる時間であるからだ。おばけは何かと何かの境界に現れる。そ れは怪なるものこ そがあやふやな存在であるためだ。幽霊が死者と生者の境界に立っていることがもっともわかりやすい例だろうか。狐などが人に化けるのも、 人と獣の境界を化 けることであやふやにする行為だ。近しい意味で女装「」もまた怪なる境界者ということができるだろう。否哉という女装妖怪もいる。


以上、簡単にウチとソトと境界について説明してきた訳であるが、ようやく再三述べているマレビトを紹介する前提が整った。

マレビトとは来訪者であり、境界を行き来するものである。

民俗学者折口信夫により発見された概念であるが、悪魔がおるは驚くほど共通の性質を持っている。

次項においてマレビトと来訪について詳しく述べよう。

第二項 マレビト
マレビトは民俗学者折口信夫により設定された用語で、その意は大枠で先述したようなものであるが、実は明確な定義が行われていない。
折口は沖縄の民俗から着想を得、自らの沖縄に対する憧憬を込め、文学的かつ情動的な用語としてマレビトを使っていた。
しかしマレビトという捉え方の有効性は後世に広く影響を与え、現在においてはより明確に定義された同系統の概念として「異人」が使われる。
では文化人類学者小松和彦により行われた異人の定義を見てみよう。

「異人」とは、一言でいえば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことである。その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人びとにとって具体的な問題となる。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのである。(小松和彦『怪異の民俗学7 異人・生贄』)

本論においてはマレビトと異人の明確な区別を行うことなく、上記をマレビトの定義として行うが、注目したいのは、マレビト(異人)なる概念は、主体となる世界・共同体が異物を見た折に発生するものであるということだ。主体となる世界がマレビトをマレビトとして判定するのである。
ゆえに、ある一方の世界においてマレビトとして扱われるものが、もう一方の世界においてはマレビトとして扱われることが多々見受けられる。
その代表的かつもっとも原初的なものはスサノヲノミコトであろう。
スサノヲは狼藉を働き高天原を追放された荒ぶる神でありながら、もう一方ではその有り余る力を以って魔の類を払う神として信仰される。追放後、青草を束ねた蓑笠ひとつで雨に濡れ豊葦原を放浪するスサノヲの姿こそが、日本人の持つマレビト観の典型的姿であると指摘したのは民俗学者赤坂憲雄である。(赤坂憲雄『境界の発生』)
他にマレビトの例としてわかりやすいものは、中世の乞食だろう。
鎌倉期の文献『名語記』からこのような記述が伺える。

千秋万歳トテ、コノゴロ正月ニハ散所ノ乞食法師ガ、仙人ノ装束ヲマナビテ、小松ヲ手ニササゲテ推参シテ、様々ノ祝言ヲイヒツヅケテ、禄物ニアヅカルモ、コノハツ子日ノイハヒナリ

普段は物乞い(その多くは身体障害者、または疾病患者)としてケガレたものと同等の扱いを受ける彼らもこの日に限り、聖職者としての属性を受け、歓待を受け、言祝ぎを行っている。
空間的境界を隔てるのではなく、時間的境界を隔てることで、聖と俗を乞食が行き来する性質を持っていることがわかる。
さらに物乞いとは多く、その身体障害や病からカタワ人などの名を与えられ本来の村や家から追放された者らであり空間的境界も隔て卑が聖に転じていることがわかる。
このような性質から物乞いはマレビトであり、また例に見える言祝ぎのようにマレビトが特異な儀式を有していることが伺える。柳田邦夫は物乞いの職業を一種の宗教的慣例のうえに成立する「交易」と捉え、宗教行為であると看破している(『所謂特殊部落ノ種類』定本第二七巻所収)。
また我々にとりわかりやすい例を挙げると仮面ライダーディケイドは典型的なマレビトの構造を持つ。
ディケイドの物語は以下のような基本骨子を持つ。「士たちが新しい世界を訪れる→世界にはなんらかの障害・事件が起こっている→ディケイドが世界に関わる→混乱の果て障害の解決→士たちは世界を去る」これは典型的なマレビトの来訪譚であることが伺えるだろう。
各世界におき、ディケイドが破壊者として扱われることもまたマレビトとしての性質からくるものである。

3 悪魔がおる
がおるは悪魔である。この一文にどれほどの意味が込められているだろうか。
がおるは獣とも人とも付かぬ姿をしている。古今に見られる妖怪や神同様に、別種の生物の境界に立つものの姿であると言えよう。

がおるの性質とマレビトの構造に多く同一の部分があることはここまででおおよそ掴めたことと思う。その上でマレビトに関する先行研究から悪魔がおるを読んで見よう。
赤坂憲雄が境界と客人神に関して興味深い見解を示している。
赤坂にとり境界とは「外部」と「内部」の創出であり、同時に異なる領域の交流・交渉という意味での「交通」の場の創出であった。境界の発見とは相対化による共同体の創出に他ならない。
ならば悪魔がおるはdatとimgを行き来することでサーバーの境界を明らかにし、ひいてはそれぞれの自己を認識させる大きな役割を担うカミだったのである。
昨今、がおるがpixivでも獣属性の絵描きに人気であるという言説を聞く。放浪するカミであるがおるの行動範囲まだ広がり続けているのだ。


おわりに
我々は口承の世界に生きている。
口承とは口伝えの物語のことである。御伽噺、世間話、怪談、単なるうわさなど我々の周りを様々な口承の物語が飛び交う。
口承は文化の根源の一つである。神話、そして伝説だけではなく、うわさ話からもその根を辿ることができる。
その意味において、二次裏という空間は民俗学的に非常に重要な価値を見出すことができる。日々新しいキャラクターと物語が創出され、作り直され、忘れられ再発見される様はまさに民俗社会の有様をデフォルメしたものである。
たとえばOS娘は、器物の妖怪化としてツクモガミとして見ることができるし、もはや数え切れぬメイドたちは数多の概念を擬人化した八百万神だ。二次裏の民俗学的研究はこれから、より進められるべきであろう。
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  1. 2011/10/23(日) 00:22:02|
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